織原 ひめみ

　隣のうちのお兄さんは、宇宙飛行士だった！？

　ずっとあこがれの存在だった彼……

　けれど彼女が想いを伝える前に、旅立ってしまった。

　時々宇宙中継で、彼の様子はわかるけど。

　それでも、遠い遠い空の上。簡単に話はできない。

　夜な夜な、お兄さんがいるであろうところを望遠鏡で探しつつ、彼女は考える。

　宇宙ってどんなところかな？

　宇宙に行くには、どうすればいい？

　宇宙に関わる仕事って、どんなものなの？

「直接、お兄さんと会って話がしてみたい」

　その気持ちが、彼女を行動させる。

　ちょっと先の未来。あるところに。

　女の子と、となりのおにいさんが住んでいました。

　なかよしふたり。女の子のあこがれは、おにいさん。

　なのにある日、おにいさんは、急にどこかにたびにでてしまい、女の子はとてもかなしくなりました。

　どうしてつれていってくれないの？

　けれど、さらにもっと時間がたった別の日に。

　おにいさんは「おはよう！　ひめみ！」と、テレビの画面をとおして、女の子にあいさつしてきたのです。

　おどろいて、うれしくて。女の子はおにいさんがいるはずの空を見上げました。

　それはとおいとおい、空の上。

　とおすぎてみえないよ。どうすればみえるの？

　あっ、そうだ。わたしもそこにいこう。

　そのとき女の子は、きめたのです。

　お兄さんはちっとも、隣の家には帰ってこない。

　たまにでいいから、お兄さんに直接会いたいな。

　あれからもう１０年以上が経って、私も１７歳。

　お兄さんは宇宙飛行士として、すっかり有名になってる。

　今もＩＳＳ（国際宇宙ステーション）の次期滞在に向けて、約２年にわたる訓練を受けてる最中のはず。

　すごいなあ。お兄さん、また宇宙に行くんだなあ。

　ＩＳＳクルーは、地上でも忙しい。

　ステーションに参加している各国を訪れ、宇宙での活動について、勉強や技能試験をたくさんする。

　宇宙にいるクルーとも、こまめに連絡を取る。

　みんなは、ひとつのチーム。家族みたいに仲良くしていて、研究内容や成果の情報の共有もする。

　みんなの頭脳や勇気が、ＩＳＳを動かしてるんだ。

　私はお兄さんみたいに背も大きくないし、英語も全然ぺらぺらじゃなくて、ちょっぴり人見知りもする。

　うーん。宇宙は遠いよー。

　七夕だからというわけじゃないけど、私はお兄さんにとっても会いたくて、でも会えないから空を見る。

　実は今回、お兄さんが宇宙に行く予定がすごく早まった。

　ＩＳＳに半年に一度行く有人宇宙機（宇宙船）の定期便に、欠員ができてしまったの。

　なので次回滞在の予定をキャンセルして、お兄さんは臨時の助っ人として、ＩＳＳ往還のために旅立った。

　宇宙にいる仲間を船に乗せて、無事に地上に戻ってくるのが、今回のお兄さんの仕事。

　なるべく真っ暗な山の中を目指し、私は望遠鏡を担いで持って行ってから、上を覗いた。

　うまくすれば、ＩＳＳとお兄さんの船のランデブーが見えるかも！　あっ！　あれかな？

　でも空は大きい。宇宙は広いよー。

　座標はわかってるのに、関係ない人工衛星とか流れ星がたくさん望遠鏡に写ってなんだか困る。

　ＩＳＳにもっとわかりやすい目印がついてればいいのになあ……

　じゃないと、織姫と彦星が迷子になっちゃうよ！

　お兄さんは、再び宇宙に行くための準備に入った。宇宙飛行士が旅立つ直前は、スケジュールも秘密になる。

　だけどお兄さんはビデオメッセージを残してたので、それが『日本のみなさん』向けにテレビ放送された。

　新しい実験への意欲を、お兄さんは熱く語った。

　うーん。だけど、さびしいよ。

　今回は「行ってくるよ、ひめみー」とは、言ってくれなかった……私が幼稚園生の頃は、言ってくれたのに。

　もう私のことは忘れちゃったのかな、お兄さん……

　何年も会ってないから、仕方ないけど。

　ＩＳＳは地上４００キロメートルのところにある。

　月より断然近いし、静止衛星軌道よりも近い。

　でも、やっぱり手は届かない。

　私の背はちっとも伸びないよ。

　頑張って成績はよくなってきたのに。

　もしも私が月までジャンプできれば、お兄さんとすぐ握手できるかなあ……身体も、もう少し鍛えなきゃ。

　ある日突然、エアメールと荷物が送られてきた。

『ひめみは宇宙の物語が昔から好きだったと思うので、僕は仲間のクルーと一緒に、これをプレゼントします』

　お兄さんからだ！　私、すっごくびっくりしたよ！

　地上にいる間に送ってくれたの？

　荷物には、たくさんの宇宙の図鑑や事典と一緒に、かわいい指輪が入っていた。

　それは私が小さい頃、お兄さんと並んでテレビで見て夢中になった、外国のＳＦドラマに出てくるひみつ装置のデザインをした指輪だった。

『安っぽいおもちゃの指輪だけど、ごめんね』

　とんでもないよお兄さん！　私、一生の宝物にする！

　私はそのきらきらと輝く指輪を左の中指にはめて、学校で借りたアマチュア無線機に向かって、お祈りする。

　ＩＳＳには、地上のボランティアとの交信のための無線局がある。

　いつでも話せるわけじゃないけど、運が良ければお兄さんが出てくれるかも……

　お願い、繋がってー！　直接お礼が言いたいよー！

　宇宙で働く人たちの公用語は、英語。

　いつの間にか私は物理の計算が得意になったりしてたけど、英語は苦手だったから、あとから猛勉強した。

　専門的な宇宙の事典を読むにも、無線を使うにも、英語は大事。だから私は、とにかくがんばる。

　そのうち、私は留学生の通訳をするようになった……

　学校には本当にさまざまな国の人がいたけど、英語はみんななんとなく通じた。

　いろんな国の人と英語でしゃべって、私の人見知りはちょっぴり治ったかも。

　そしたら先生に呼ばれて、驚いた。

　学校のはからいで、なんと私は、宇宙のおとなりに修学旅行に行けちゃうことになった！

　何千何万人という候補の中から、私は選ばれた。

　候補者の中でも小柄だというのが一番の理由だった。

　背が低くて、体重も軽くて良かったなあ。

　カーマン・ラインは海抜１００キロメートルの高さ。

　そこから先が宇宙空間。

　その手前まで、私はグライダーで上昇する。

　旅行に出る前に、私は低重力環境への適正テストを受ける。自由落下タワーのカプセルに、何度か乗った。

　地下坑道を利用して２キロメートルほどを落ちていくカプセルの中は、数十秒間、一時的に無重力――正確には低重量状態になり、乗ってる人は宙にぷかぷか浮く。

　あはは！　たのしーい！　ずっとこうしてたい！

　宇宙のお兄さんたちも、いつもこんな感じなのかな？

　でも、周りの人はなんだか乗り物酔いみたいで、気分が悪そう……私は、なんともない。へんなの。

　テストで私が無事なことが確認できたので、本番。

　修学旅行は、専用の飛行機で超高々度まで運ばれた小さなグライダーで地上まで降りる、というものだった。

　テストに比べたら全然おとなしくて、快適。

　観測気球が飛ぶ空よりもずっと高い場所、オーロラができるくらいの高さを、グライダーは数分間漂う。

　許可をもらって私はシートベルトを外して、窓際までふわふわと飛んでいって、真っ暗な宇宙に手を振った。

　ＩＳＳのお兄さーん！　私いまここにいるよー！

　近いよー！　距離にして３００キロメートルくらい！　どうか気がついてー！

　私が宇宙の近くまでいったのは、それきり。

　あの時私たち学生を宇宙旅行に招待した、物好きな大富豪もいなくなってしまった。

　ＩＳＳはまだ赤道を斜めに横切りながら飛んでるけれど、そろそろ老朽化で、世代交代が噂されてる。

　宇宙開発はすごくお金が掛かるので、色々な国が計画を縮小しようとしてた……

　飛び級で大学の研究室に入った私は、キューブサットというちっちゃい人工衛星を手作りするプロジェクトをお手伝いしながら、自然科学を幅広く学んでいた。

　生き物のこと、地球のこと、隕石や天体のこと……

　世の中のいろんなことが気になる。考えて、覚えて、まだまだ私は知りたい。何年経っても興味は尽きない。

　うーん。でもやっぱり、もっと具体的に、宇宙の仕事に関わってみたいよ。

　お兄さん、私はどうしたらいいかな？

　そこに誰かがチラシを持って走ってきた。

　それはＪＡＸＡの公募だった。

　ＪＡＸＡは新しい宇宙飛行士を募集し始めた。

　おおざっぱな募集要項はこんな感じ。

　・大学卒業以上、博士課程修了推奨

　・自然科学系の技術職の実務経験３年以上

　・専門用語を含む英語の読解および会話が堪能

　・長期の宇宙滞在に適応できる身体、精神性、協調性

　うわー。私は自信がいきなりなくなっちゃう。

　でも、お兄さんはこれをすべてクリアしている……

　そもそも、競争率も高そう。

　何千人という立候補者がいるに違いない。けど。

　アイドル目指すより競争率低いよ、と誰かが言った。

　そういう問題なのー？

　ひめみー試しに応募してみなよーお兄さんに今度こそ会えるかもよー、と友人も冷やかしてきた。

　友は、私の指輪とお兄さんのことを知ってるのだ。

　むむむ。うーん……じゃあ、試すだけなら……

　あのＪＡＸＡの公募から、１０年が経過した。

　今、私はスタッフに椅子の型を取ってもらっている。

　旧式の往還船には、汎用のバケットシートがない。

　だから乗組員は身体にぴったり合う専用の椅子を作って、激しい重力や熱から自分を守らなくてはならない。

　わかってるんだけど……裸になって石膏ぺたぺた塗りまくって型を取るのは、やっぱり恥ずかしい！

　そして私は飛行士になって、宇宙の職場に通う。

　次世代ＩＳＳの建設予定地では、周辺のスペースデブリを取り除くため、飛行士とロボットが大勢働いてる。

　ぐるぐる回るセントリフュージモジュールで、人工重力の実験ができるようになる予定。楽しみ。

　宇宙で過ごす人が増えたので、宇宙での食事はどうしたらいいのか、病気はどう治せばいいか……課題もあれこれ増えた。けど、チャレンジのし甲斐もたくさん。

　私たちがもう少し頑張ったら、普通の人も星の世界に住めるようになるかもしれないよ。

　そうだよね、お兄さん？

　月の裏側に向かって、私はそっと聞いてみた。